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 講 演 要 旨


「南極から地球を眺める」と人類の明るい未来が見えてくる
柴田鉄治 科学ジャーナリスト



T.南極とは
日本の約40倍の面積をもつ大陸で、何千年、何万年と降り積もった雪が分厚い氷の層を成し、氷の厚さは平均2000mにおよぶ。覆われている氷によって、世界で最も背の高い(海抜の高さで)大陸である。 人類がその存在を知ってからまだ200年余しか経っていない。極めて歴史が浅い大陸である。 ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコットが南極点一番乗りを目指して激烈な競争を繰り広げたのが、1911年〜12年のこと。いまから僅か95年前のことだ。その同じ年に日本の白瀬探検隊が南極点を目指し、南緯80.5度まで踏破している。世界の探検史に輝く成果である。

U.日本の南極観測が始まって今年は50周年 1957年〜58年の国際地球観測年(IGY)に各国が協力して南極観測に挑もうという計画が進んでいることを知った朝日新聞社の矢田喜美雄記者が、日本も参加できないかと考えたのが発端。朝日新聞の提唱に学界が賛同し、政界・官界も乗って、日本の南極観測がスタートした。 敗戦から10年。日本はまだ貧しかったが、南極観測のニュースを国民は熱狂的に歓迎した。湯川秀樹博士のノーベル賞、古橋広之進選手の世界記録につづく、敗戦後の国民を元気づけた明るいニュースだったのだ。 灯台補給船を改装した南極観測船「宗谷」が氷に閉じ込められるたびに国民はハラハラし、ソ連の「オビ号」に助けられたと聞いてホッとし、無人の昭和基地でカラフト犬のタロ・ジロが生きていたというニュースに胸を熱くしたのである。

V.私の南極体験
「宗谷」の老朽化で第6次隊をもっていったん中断したあと、新しい観測船「ふじ」を建造して観測を再開した。その第7次観測隊に、私は報道記者として同行したのである。1965年〜66年のことで、私が30歳のときだった。 このときの南極行で、私は南極の大自然の素晴らしさにすっかり魅せられた。同時に、帰途に立ち寄ったソ連基地、ベルギー基地との交流で、南極がパスポートもビザも要らない、人類の理想を実現した地球上で唯一の場所であることを実感したのである。 さらにその3年後の1968年、私は第9次隊による極点旅行を取材するため、アメリカ隊の航空機で南極点のアムンゼン・スコット基地に飛び、南極点での日米両隊員らの心温まる交流ぶりを目の当たりにした。 この2回にわたる南極行で、南極は私の胸に深く突き刺さったのである。

W.なぜ40年ぶりの再訪を思い立ったのか
  人生の区切り目の70歳を迎え、「第二の人生」の大学教員も退任、その記念に、昔の取材現場にもう一度立ってみたいと考えた。 それに、南極観測50周年を迎え、次の50年のあり方を考えるため、科学ジャーナリストとして最近の状況を見ておくことも必要だと考え、第47次隊にオブザーバーとして参加したいと国立極地研究所に同行願いを出した。 さらにもう一つ、私のひそかな思いがあった。子どものころの戦争体験から「二度と戦争はごめんだ」とジャーナリズムの仕事を選んだ私としては、最近の世界や日本の状況が心配でならない。世界中がキナ臭くなってきたいまこそ、国境もなければ軍事基地もない「人類の未来を先取りした平和の地」南極のもつ意味をもう一度、考え直してみたいと思ったのである。

X.40年ぶりの南極の姿 こうして2005年11月から06年3月まで、40年ぶりの再訪が実現したが、実際に見た南極の姿はどうだったのか。 全体の印象をひと言でいえば、激しく変わったところと、少しも変わっていないところと、二極分化した感じである。 変わったところとしては、基地の施設の充実、いまやメールもインターネットも自由自在という通信状況の大変化、IT時代を迎えて隊員気質が大きく変わってきたことなどがあげられよう。 また、変わっていないところとしては、いうまでもなく南極の大自然、「年一回の船便方式」とでもいうべき輸送方法、さらに昭和基地での夏作業のやり方である。科学者も医者も全員総出で早朝から深夜まで建設作業に取り組むところはまったく変わっていなかった。

Y.南極観測の科学的意義
「宇宙に開かれた地球の窓」という言葉があるように、南極は、オーロラや隕石など地球科学の研究に欠かせない特異点なのである。とくに昭和基地は、オーロラ帯の真下にあるため、オーロラに観測ロケットを直接打ち込むなどの日本隊の観測は、世界の注目を浴びた。 また、隕石の発見も日本隊の特技といってもよく、この30年間に南極で発見された約2万個の隕石のうち、8割は日本隊の発見で、日本はいま世界一の『隕石持ち』なのである。 南極はまた、いま世界の注目の的である地球環境問題のバロメーターでもある。地球温暖化が進んで南極の氷が融けたらどうなるか。南極の氷の消長は、世界の気候変動や海面上昇のカギをにぎるものであり、また、温暖化の原因となる大気中の二酸化炭素の増加も、「地球の過去帳」である南極の氷床の分析から明確になったのだ。 さらに、清浄な南極は、地球の汚染度を知るバロメーターでもあり、南極にあるはずのないPCBが見つかったりもしている。 地球の成層圏で太陽からの紫外線などを遮断しているオゾン層に穴があく「オゾンホール」を南極上空で発見したのも、日本隊の功績であり、フロンガスの規制という新たな地球環境問題を登場させた。オゾンホールの発見によって「地球の病気はまず南極に現れる」という言葉まで生まれ、南極観測の重要性をあらためて示したのである。

Z.南極条約とは
南極は、国境もなければ軍事基地もない、人類の共有財産として各国が科学観測に協力し合う平和な地である。そんな人類の理想を先取りしたといっていい状況を支えているのが、1959年に制定され、61年に発効した南極条約だ。 厳しい冷戦下で国際地球観測年を終えた米ソ両国が、互いに相手側が南極に軍事基地を造るのではないかという疑心暗鬼にとらわれ、米国の提案で生まれたものだが、できあがった条約は素晴らしいものだった。 第1条に軍事利用の禁止をうたい、第2条、3条で科学観測の自由と国際協力を定めている。第4条で領土権の凍結を決め、第5条以下で核実験や放射性廃棄物処理の禁止など、環境保全を厳しく求めている。 当時、南極に基地を持っていた日本を含む12カ国が署名して制定されたが、最も難航したのは領土権の凍結だった。原署名国12カ国のうち、英、仏、ノルウェー、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、ニュージーランドの7カ国が南極に領土権を主張しており、それらの国を非主張国の米、ソ、ベルギー、南アフリカ、日本が説得した形である。 とくに日本は、白瀬隊の探検を論拠に、南極に領土請求権があるとしていた主張を戦後の講和条約で放棄した国として説得役に回ったといわれる。 資源問題から一時は生臭い風が吹いたこともあったが、1991年の改定期を「鉱物資源の開発は50年間禁止」「環境保全をさらに厳しく」という形で乗り切り、南極条約体制はいっそう強化された。 加盟国は現在、45カ国に増えている。

[.世界中を「南極」にしよう!
 各国が国益を主張してぶつかり合っていたら、戦争はなくせない。そして、核兵器を持ちたいという国が、いまのように次々と現れてくるなら、やがては核戦争が起こることになろう。核戦争が起これば、地球と人類は破滅する。 戦争をなくすには、国境の敷居を低くして、各国が国益をぶつけ合わないようにすることだ。そして、すべての国が、国際紛争を解決する手段としての武力行使を認めないようになれば、戦争はなくせる。現に、「国境もなければ軍事基地もない、環境を守りながら各国が科学観測に協力し合っている」という平和の地が、地球の一角に存在するのである。 人類の理想を先取りしたという点では、南極は地球の憲法九条だといえよう。すべての国が憲法九条を持てば、戦争はなくなるだろうが、それがいますぐ無理だとすれば、「世界中を南極にしよう!」という夢を少しずつ世界へ広げていくことだ。 人類の共有財産という考え方は、決して夢物語ではなく、事実、南極条約を発端としてその後、宇宙・天体条約、海洋法条約へとつながってきているものなのである。 また、戦争だけでなく、地球環境もまた、各国が国益をむき出しにしてぶつかり合っていたら解決できないのだ。たとえば、地球温暖化を防ぐための京都議定書から「国益を盾に」米国が離脱したり、中国が参加しなかったりしているが、これではとても地球環境は守れない。 つまり戦争をなくすにも、地球環境を守るにも、国境を超えて地球全体を一つに見る視点が欠かせないのだ。愛国心ではなく、愛地球心でなくてはならないのである。 これからの地球と人類のあり方を考えるとき、世界中の人々が「国境を超えた視点を持つ」ことが何よりも大切になる。そういう人材を育てる最高の教材が南極なのだ。 40年ぶりの南極再訪で、私はそのことをあらためて痛感し、次代を築く人たちに「世界中を南極にしよう」という運動を引き継ぐ語り部になろうと決意したのである。

以上


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